インフラ屋の戯言

社会に対して思うこと、テクノロジーとアートのこととか書いていきたい

20160705

なにごとも「継続は力」とは小さい頃から耳にタコができるくらい本当によく聞かされて来た言葉だけど、最近この言葉の本質を噛み締めることが多々ある。

 

言葉の通り、継続することで仕事だとか勉強だとか簡単なことっていうのはある程度出来るようになる。ただ、継続とはいってもここでは仕事と勉強を別のカテゴリに分けて考えてみたい。

 

仕事というのは、自分に与えられた、いわば毎日「こなさなければならない」という強制的に自身に働きかけてくるものである。そこに自分の意思はない。

対して勉強は「やらなくても生きていける」という自分のさじ加減で適当にやればいいもの。自分の気分次第なので仕事との差は極端なものである。なので2つの事柄は相反したものであるとぼくは思う。

仕事をやる上で大事なのはまあ、一生懸命頑張る、みたいな昔ながらのスポ根精神も重宝されるかもしれないが、基本的には苦行ではなく楽しみながら取り組むことに尽きる。毎日毎日同じことの繰り返しに思えることもちょっとした発見や工夫を凝らすことによってそこに多少なりとも変化が生じる。そうした些細な変化は人間にとって極めて大事なことだと考えていて、例えば、偏差値40程度の人間の頭がいきなり70になることはほとんど不可能だ。日々の繰り返しでこつこつ地道な勉強を積み重ねていったある時、頭に爆発が起こる。自分の限界点の突破。英語ではこういう状態をEmergenceという。些細な変化の繰り返しを沢山たくさん積み上げることで仕事上におけるEmergenceも発生しうるのだ。

投げやりな姿勢では、こうした変化は見逃されがちだ。タイトルの「継続は力」にも反することになるだろう。

 

 

次に勉強について。

勉強は嫌なもの、できれば避けたいもの。世間一般の認識は大体こうだ。昔から大きな変化は無いと思う。ただ、この勉強というもの、親や値上の人間からやれといわれて嫌になって投げ出した、という人も非常に多いのだと考えている。僕自身もそうだった。とある時期から僕のなかでこの考え方に「特定の分野だけでいいから誰よりも賢くなりたい」という根本的な変革が起こった。

 

好きな勉強、興味を持った勉強を意識的に取り組むと次第に知的好奇心が感化されていくのが分かる。勉強は仕事のように義務ではないからこの感覚を醸成させるのは色々と努力が要ることだが(かく言う僕も努力は相当した)、あのときの努力があって今の自分があるのだと思うと、より勉強していろいろなものを俯瞰できるような自分になりたいと強く思うのだった。勉強が嫌いだという中高大学生は非常にもったいない。勉強できるのは当たり前ではない。たまたま、偶然の産物で勉強できているのだ。勉強がやりたくてもできない環境、頑張りたくても頑張れない状況はこの世の中ゴマンと存在する。勉強できる時間は人生において最も有意義で価値のある時間なのだ。

ここにおける勉強というのは何も学校で習う数学とか英語とかみたいな嫌いな人が盛りだくさんな科目に限らない。絵の勉強、音楽の勉強、保育、美容、介護、服飾、経営…探せば切りが無い。何か好きなものを見つけてそれに向かって突き進んでいくというのは僕が最も大事にしたいと考えている感情だ。

自分なりに努力して形になりかけてきたものを投げ出して途中でやめるのは非常に悲しいことだ。そこで「継続は力なり」なのである。

そしてさらに自発的かつ主体的に「継続を習慣化させる」ことに邁進していくことが重要なのだよなあ、などと考えていた。

 

この辺のテーマについてはもっと話したいことがあるのでいつかまた書こうと思う。