インフラ屋の戯言

社会に対して思うこと、テクノロジーとアートのこととか書いていきたい

20160817

英語の要約をやっていて印象的だった文章を掲載したい。

本文): The use of highlighters - those marking pens that allow readers to emphasize passages in their books with transparent overlays of brightcolor - is significantly affecting the education of university students by distorting and cheapening the way many read.
 While some students still read without using any kind of marker,and some continue to use pens or pencils,most have switched to highlighters.The most common use of highlighters is for simply marking,with a colorful coating over the word,the main points of a text that the student needs to read. While this might seem harmless,such highlighter use in fact encourages passive reading habits - a mindless swallowing of words that pass through the reader without making any lasting impression.This can have a serious effect on young adults who very much need to learn to read actively,critically,and analytically.
 It might be objected, with some justification,that the use of a pencil or pen could also bring about the same result.It is nevertheless proper to hold the highlighter responsible for the actual decline in reading skills. When a pencil or pen is used for a highlighting (that is, underlining) purpose ,it is ordinary used also for writing notes in the margins, a process that greatly intensifies the reader's involvement with the text. The highlighter is practically useless for this purpose.

訳): 蛍光ペンは、透明な明るい色を上塗りして、本の一部を目立たせるマーカーであるが、それが使用されることが、大学生の教育に大きな影響を及ぼしている。多数の大学生の読書法がそれによって歪められ、安直となっているからである。
 いかなるマーカーも使わずに読書している者も依然としているし、ペンや鉛筆を使い続けているものもいるけれど、ほとんどが蛍光ペンに転じてしまった。最も普通の蛍光ペン使用法は、単にマークするだけである。学生が読む必要のある文の要点の語句を色鮮やかに塗りつけるのだ。これに害などなさそうに思われようが、実はそうした蛍光ペンの使用で受動的な読書習慣がつきやすくなる。頭を使わず鵜呑みにして、言葉が読者を通過していき、印象が長く残ることは全くない。このため、能動的、批判的、分析的な読書を大いに身に付けなければならない青少年に重大な影響が及びうる。
 鉛筆やペンを使っても同じ結果になるという反論もあろうし、ある程度はあたってもいる。しかしやはり、読書が現実に下手になっていることの責任は蛍光ペンにあると考えるのが妥当である。鉛筆やペンがマーキングの目的(つまり、下線を引く)に使われると、それが余白の書き込みにも使われるのが普通である。これは読者のその文章へのかかわりを大いに強化する行為である。蛍光ペンは、この目的にはほとんど役立たない。

(問:70~80字にて要約)蛍光ペンを使うと受動的な読書習慣を助長し、能動的、批判的、分析的に読書すべき青少年に有害である。従来の鉛筆やペンなら蛍光ペンに不可能な余白の書き込みにも使える。(80字)

'92年に書かれた文章だが、この蛍光ペン有害論は現在も廃されずに語り継がれている。ぼくも重要部にマーキングをして勉強をしたつもりになっていたことが有ったが、教科書等における重要部というのは基本的に太線で書かれていたり、読者の注意を引く何らかの工夫が施されているため、改めて自分でマーキングをする必要など無いと悟った経験がある。教科書ではなく読書用の本には、文中にも書いてあるとおり余白への書き込みなどに優れた鉛筆が活躍する。よってぼくの数ある文房具の中でも、マーカーだけは使用頻度が物凄く低く、常にインクがたっぷりあまっている。購入した側からしてもその様子は寂しいのでたまに使ってあげたいのだが、機会が無くて残念である。

しかしながら、文意とは関係ないことだけれども英語で文章を打つというのはやった事がなかったので結構疲れた。

 

20160811

文章の構成を考えるのは即興で出来るからいいんだけど、内容に膨らみを持たせるのが僕の苦手とするところなので、日本語も器用に操れない為にまとまった文章というか自分が意図した文章が構成するのは本当に骨が折れる。書いてる途中に書こうと思ってた内容が飛ぶってことも結構あるんだけどこれも本当に辛い。なのでテーマ(大まかなもの)だけメモにまとめるようにした。タイトルを日付でしかあげないのも、全体を俯瞰してタイトルを考える労力を削減するため。人のブログ読んでて分かった事だけどタイトルがあるのとないのとでは、内容を推測できる度合いが大きく違ってくると思う。この文章のタイトルも「ブログ書くときのぼくの気持ち」とかなんでもいいから添えるだけでどういう心持で読み進めればいいかわかる。小説の章ごとに名前が割り振られているのと変わりない。

上述で日本語も器用に操れないといったが、最近本当に日本語に悪戦苦闘することが多くなった。相応にさまざまな熟語や言い回し、ことわざ、比喩、倒置がわかって来た途端、次の扉というか新しい日本語の段階がやってきた?とでもいうのだろうか。言語の奥深さを知ることになった。英語にそこそこの時間を避けているものの、日本語の完全な習得がままならないようでは英語はいつ終わりを迎えるのか見当もつかない。言語の本質的な理解は自分でさまざまに利用することにあると考えている。読む書く聞く話す、の4つの中で圧倒的に「話す」のレベルが高い。言語習得には「話す」を乗り越えるための読む書く聞くなのだというのは僕なりの見解だ。

日本語、英語問わず言語の運搬能力の向上は知能の向上ひいてはコミュニケーション能力の向上につながるのでこの先も努めていきたい。

 

20160728

最近、文春砲喰らってすっかり落ち目になってしまった鳥越さんの票が、増田さんか小池さんかどっちに入るんだろうっていうのが気になる。

 

今月頭に「努力」テーマに文章書こうと思ってたのに、すっかり忘れてた。

このごろ短いスパンで価値観というか、自分の中の客観性みたいなものがすごくよく変化するのだけれど、そのことと努力がどう関連するのかというと、多様な価値観の受容というのがキーで、能動的かつ主体的に自分と関わりの薄かった分野の把握を行うことで、専門分野への波及効果が期待されることに尽きる。

周囲の人達をテストケースにして自分の中で判断しただけなので、確実なデータと論証付けることはできないが、人?(日本人だけか?)は基本的に排他主義なので、他の価値観を受け入れがたい傾向にあるように思える。自分が学生時代だった頃の周囲の人間を考えてみてもそうだった。

これに該当しない人も当然存在するわけだが、普通の人間よりは比率が少ないように感じる。事象を肯定的に捉えるというのは僕もずっと実践していることだが、これが中々難しい。これが多少なりとも体得できるようになると、客観性も増して、自分自身まだまだ考えが至らない若輩者だと痛感することも多くなる。

至らない点を補うための努力とは何か模索するようになり、色々なことに挑戦し始めるようになる。このフローは非常に理想的なものに思える。

20160705

なにごとも「継続は力」とは小さい頃から耳にタコができるくらい本当によく聞かされて来た言葉だけど、最近この言葉の本質を噛み締めることが多々ある。

 

言葉の通り、継続することで仕事だとか勉強だとか簡単なことっていうのはある程度出来るようになる。ただ、継続とはいってもここでは仕事と勉強を別のカテゴリに分けて考えてみたい。

 

仕事というのは、自分に与えられた、いわば毎日「こなさなければならない」という強制的に自身に働きかけてくるものである。そこに自分の意思はない。

対して勉強は「やらなくても生きていける」という自分のさじ加減で適当にやればいいもの。自分の気分次第なので仕事との差は極端なものである。なので2つの事柄は相反したものであるとぼくは思う。

仕事をやる上で大事なのはまあ、一生懸命頑張る、みたいな昔ながらのスポ根精神も重宝されるかもしれないが、基本的には苦行ではなく楽しみながら取り組むことに尽きる。毎日毎日同じことの繰り返しに思えることもちょっとした発見や工夫を凝らすことによってそこに多少なりとも変化が生じる。そうした些細な変化は人間にとって極めて大事なことだと考えていて、例えば、偏差値40程度の人間の頭がいきなり70になることはほとんど不可能だ。日々の繰り返しでこつこつ地道な勉強を積み重ねていったある時、頭に爆発が起こる。自分の限界点の突破。英語ではこういう状態をEmergenceという。些細な変化の繰り返しを沢山たくさん積み上げることで仕事上におけるEmergenceも発生しうるのだ。

投げやりな姿勢では、こうした変化は見逃されがちだ。タイトルの「継続は力」にも反することになるだろう。

 

 

次に勉強について。

勉強は嫌なもの、できれば避けたいもの。世間一般の認識は大体こうだ。昔から大きな変化は無いと思う。ただ、この勉強というもの、親や値上の人間からやれといわれて嫌になって投げ出した、という人も非常に多いのだと考えている。僕自身もそうだった。とある時期から僕のなかでこの考え方に「特定の分野だけでいいから誰よりも賢くなりたい」という根本的な変革が起こった。

 

好きな勉強、興味を持った勉強を意識的に取り組むと次第に知的好奇心が感化されていくのが分かる。勉強は仕事のように義務ではないからこの感覚を醸成させるのは色々と努力が要ることだが(かく言う僕も努力は相当した)、あのときの努力があって今の自分があるのだと思うと、より勉強していろいろなものを俯瞰できるような自分になりたいと強く思うのだった。勉強が嫌いだという中高大学生は非常にもったいない。勉強できるのは当たり前ではない。たまたま、偶然の産物で勉強できているのだ。勉強がやりたくてもできない環境、頑張りたくても頑張れない状況はこの世の中ゴマンと存在する。勉強できる時間は人生において最も有意義で価値のある時間なのだ。

ここにおける勉強というのは何も学校で習う数学とか英語とかみたいな嫌いな人が盛りだくさんな科目に限らない。絵の勉強、音楽の勉強、保育、美容、介護、服飾、経営…探せば切りが無い。何か好きなものを見つけてそれに向かって突き進んでいくというのは僕が最も大事にしたいと考えている感情だ。

自分なりに努力して形になりかけてきたものを投げ出して途中でやめるのは非常に悲しいことだ。そこで「継続は力なり」なのである。

そしてさらに自発的かつ主体的に「継続を習慣化させる」ことに邁進していくことが重要なのだよなあ、などと考えていた。

 

この辺のテーマについてはもっと話したいことがあるのでいつかまた書こうと思う。

20160701

今日はpodcastバイリンガルニュースから「EU離脱について」のネタを仕入れてきたので、それについてつらつらと書きます。

僕はこのニュースをリアルタイムでは全然追っていなかったので、緊迫感とか、離脱が決定してしまったときの大変さとかといったバッググラウンドについては全く考える余地もありませんでした。なので、事後に僕なりに視てきたニュースから色々かいつまんで主題に上げていきます。

まず国民投票で「離脱派51% 対 残留派49%」という投票率で議案が完結したとのことでしたが、ここで完結させてしまうのは凄く大きな問題ですよね。

どちらにも一定の支持者が存在する場合に限り、投票というのは公平性に欠ける部分が露呈します。そこで現在イギリス国内では再度の国民投票を行うかの可否を問われているわけです。

次の大きな問題としては、離脱残留の両派において支持する層にジェネレーションギャップが生じているとの事。離脱=中年以降の高齢者、残留=若年層、といった具合です。

若者たちは政治経済的問題、教育的問題などこれからさまざまな問題に直面するわけですが、そういった内情も考慮しないまま、投げやりな投票で離脱を支持する高齢者が一定数居たことに対して憤りを隠せない様子です。

まあ自分も若年なので擁護するわけじゃないですが当然っちゃ当然ですよね。

EUから離脱するという事はこれまで連合内で確立されてきた風習だとか、たとえば経済面での変化、工業面(インフラ建築)等での変化、さまざまな要素があるわけです。風習とか慣例とか1から構築する事を考えたら、とにかく物凄い労力を要しそうですね。

こういった事態を防ぐ意味として残留派の人達は投票したようなのですが、どうにも上手く行かなかった。というか国内でも「この国民投票でどっちに転んだからどうなる」みたいなことを完全に把握できていた人のほうが少なかったみたいです。

政府の説明不足もあったのかな。まあ次回の投票における猶予期間なども設けられているそうなので、次回はきっちり理解した上で投票がなされることだと思います。

 

20160626

副収入を得る方法として、ブログにAdvertisementを貼り付けたり、アフィリエイトのサイトとして自分のブログを活用して稼ぐという方法は、投資信託やFX、不動産投資よりは遥かに手軽でリスクも少ない。

 

ということで、自分のブログへのアクセスを伸ばしてアドセンスアフィリエイトによる収入を得るために定期的・長期的にブログを書く努力をすることに決めた。

 

安月給だししょうがない。どこかで頑張らなければ。

 

文体とかも商業チックに変えたほうがいいのだろうか・・・。

20160625

一歩外へ出れば喧騒とした社会は、休日の自宅での穏やかな読書の時間によって僕自身の記憶の断片から一時的ではあるが、消去される。

時間は有限であることなど改めて述べるまでも無い、決定的な事実だが、思考の高速化を計ることでその間隔は多少なりとも延長される。

しかし、この思考の高速化というものがやはり非常に厄介で、凡人が適当な努力を積み重ねるだけでは到達できない境地が確実に存在し得る。

経験から得られた知識で既存の問題解決への時間短縮を図ることに関しては、思考の高速化という言葉は当てはまらない。

当人が未知の問題や事象に立ちはだかったときに、さまざまな要因(知識、知恵、経験則等)を総動員して解決策を1から導き出すことにこの言葉は用いられるべきである。

ただここに至るまでに、「経験から得られた知識で既存の問題解決への時間短縮を図る」という手順を幾度と無く繰り返す必要がある。

地盤が緩やかなところには家が建たないのと同じで、人間の柔軟かつ高度・高速な思考力を身に付けるには、膨大な経験的知識をインプットしておく必要が不可欠である。

希望を失わず、毎日邁進し、emergenceを起こすことができるか?というのが最近の自分に与えられた命題だと思っている。