リアリズムの表層感覚
私は自分でもはっきりと自覚できるくらいの強烈なリアリストであり、合理主義者だ。
人間にとって、夢や目標に向かい邁進することは美徳であり、尊ばれるものである。
「若者は大きな夢や大志を持て。」
幼いうち、大人は自分より年少のものに対してそんなことを言う。
しかし、努力して行くうち自分にはできないと現実を突きつけられ、虚勢され改ざんされる若者の未来。
私は自分に出来得ると確信したことしか目標にはしないことにしている。人間は宝くじのような一発逆転劇を追い求めたがるものだが、そのような大きな波というのは通常、起こり得ないのである。
いわば1がいきなり100になることがあり得ないのと同義で、正しい段階を踏まえ、堅実に自分と向き合い、創意工夫のもと1から2,3,4…と積み上げて行くことが現実的であり合理的なのであって、意外と世の中の人間がこのようなことも意識出来ず日々を無為に過ごしているのを見るとなんともいわれぬ心持ちになる。
自分を知るには現実を知り、世間を知ることから始まるのだと思う。
問題発生に対する原因分析
仕事していると、毎日問題に出くわす。
人間の本質的な仕事は、この出くわした問題を解決することに尽きるといっても過言ではない。
とある小売商が「自分の店の商品が売れない」というような問題に直面したとする。この場合の解決策を「商品が高いから売れないのだ」と見定める。
ここに大きな落とし穴が存在する。
というのは、問題が発生したときに、なぜその問題が発生したのかの原因を調査・分析しなかった為に、間違った解決手法をとってしまうことがある。
小売商の採った「自分の店の商品が売れない」という解決策を実施しても、「商品のニーズが顧客の需要にそぐわないものだった」という別の問題が原因だったのだとしたらそれはうまく商品を捌くことができないのは当たり前だ。
上記を踏まえ、問題が発生したときに人が辿らなければならない正しいプロセスは以下。
「①問題発生 ⇨ ②原因分析 ⇨ ③解決策の実施」
これができないために多くの人は見当違いの解決策を生み出す。
私も指摘されて初めて気づくことができた。自分の頭ではわかって居たつもりでも原因分析のプロセスは端折りがちだ。
問題というのは、新しいものよりも既存のものが多く、それに対して実施したことがある解決策があった場合、人の思考は自動的にその既存の解決手法をたどる。
この点を意識して、仕事に取り組むと手戻りも少なく、作業が確実に終わらせられることだろう。
感情のコントロール
人間はいつになっても不安定な生き物だ。
特に私なども、いつまでも精神的に幼さが抜けず、これはこれで一生自分の性質として付き合っていかなければならないのかもしれない、と受け入れようとしている。
今年で27の齢になる。30も目前に控えてきたにも関わらず、個人的には18歳くらいから特に大した成長も無いままである。
そんなことを感じつつ連休を過ごしてきたのだが、世間に目を向けると同じような悩みを抱えた人たちも割と見かける。
その中でも感情の起伏が激しい人の方が、より悩みを増幅しがちな傾向にあるようだ。
いわゆるメンヘラ気質なのかもしれないが、こういった人には論理的に諭そうとしても聞き入れてくれないケースが多いと思うので、治療が必要になる。
時間の経過だけではメンヘラを治すことは正直しんどい。自分でなんとかしなければならないのだけど、簡単な方法としては、一日一回、自分と対話をしてみることがあげられる。
私も実践している事なのだけれど、対話といっても、言葉のキャッチボール程度のことで、「自分が今考えていること」、「これから何がしたいか」、などなんでもいいから口に出すだけ。簡単なことだが、いざ意識してやってみると思考が整理されてとてもクリアになる。
怒りっぽい人にはよく効くと思う。これに加えて継続的な読書習慣などが効果的。
感情の抑制ができない人は、結構な確率で本を読まない人が多い。これは個人的な経験則。
読書とは基本的に他人の思考を自分の中にインプットするに過ぎない作業だ。
しかし、10冊、20冊と量をこなして読んで行くうちに自分の頭に新たなニューロンが形成され、次第に感情が穏やかになる感覚を覚える。
あなたの身の周りにいる本をよく読む習慣があるような人は、必要外に怒らない人ではないだろうか。おまけに読書を続けるだけで人としての深みも出てくる。
一例に過ぎないが、このようにして私は自分の感情をうまくコントロールしてなんとか生活をしている。怒らないことは人生においてとても有意義なことだ。
怒りは一瞬であれ、そのことで頭がいっぱいになり、視野がとても狭くなる。理解力も通常より著しく低下する。周囲から人が居なくなる、など、いいことがない。
感情のコントロールは人生をより豊かにする方法だということを世の中の多くの人に知ってもらいたい。
日本の教育が抱える問題点
結構長い間反復して、日本の地方教育ってどうにかならないものかと考えている。
地方教育の何が一番問題で罪なことかというと小中高大全てで均質的な授業形態をとってしまっていること。全員前ならえして、同じ方向を向かせて教育することが正義だと思ってる教育者が一定数存在する。
都会だと私立の進学校は個々人で好きなように好きなことを勉強する価値観が醸成しているけど、地方校だと一部を除いて上記の古臭い価値観がまかり通っちゃってるので、ぶっ飛んだ天才、秀才が出てこないし、仮に素質ある人間がいても育てられない。
そもそも地方だと勉強することの有意性が学生側に正しく認知されていない文化が根付いてしまっているので、そこも根幹から変えないといけないと思うのだけど、人口減少しまくってる東京以外の地方を都市開発して発展させたとしても、そこで育つ子供たちが居ないから開発することのメリットがあまり無い。
早い話、やる気あって頭もそこそこにいいやつはさっさと地元を捨てて、都会で充実した教育を受けた方がいい。これは若ければ若いほど高い学習効果が期待できる。
教育の大罪の責任の一端は文科省にあるのではと思っていて、余計な私立大学の乱立を認可しすぎて、完全に大学側が飽和し切ってしまった。2017年度時点の大学総数746校のうち、定員割れする大学が40%(300校ほど)程度存在する。18歳人口は、1990年の200万人から2017年は120万人に減少したが、大学進学率は、30%程度から50%超へと増加。
受験生が減っているのに大学を増やすこの矛盾。本当に必要な大学だけ残して、そうでない大学を廃止または統合する向きも出てきている。
とは言うものの、スマホとパソコンの普及で学校に行く必要もなくなってきたので、AIの台頭とかも加味して新しい教育のスタイルが今後5〜10年くらいの期間で一新されるんだろうなあと期待してはいる。
AIは人間の脅威か
新井紀子さんによると、我々が生存している間には、シンギュラリティ(技術的特異点)は到来しない見立てが立っているらしい。
人々の職を奪いかねんと恐れられているAIについて、今のところまだ発展途上だ。
とは言っても専門性のいらない仕事については、10年以内にAIが侵食してくる。仕事にあぶれないように学問的な基礎体力を研鑽する必要に迫られている。
MUFJとかみずほとかのメガバンクが先陣を切って、行員を大幅リストラしまくっているので、推測すると銀行の窓口は誰にでも勤められる仕事だったのだろうか。
人間はAIには出来ることがない仕事をすることを求められている。人との心のつながりを求められる医療職(医師、看護師、理学療法士、作業療法士)または、無から有をクリエイトするアーティストなど。副業推進かつ働き方改革のこの時代だからこそ、仕事は都市部を中心に随分と多様化してきた。
私も今でこそSEの端くれではあるが、この先この職が安定だとはとても思えない。だからこそSEとは別に新たな肩書きを持つ必要があるとは思っている。
仕事観は人により様々だが、私の場合、仕事など程々に頑張って他にも色々なこと(趣味や遊び)に時間を使うべきだと考えている。商社や代理店や外資コンサルなどでは部署にもよるが、激務のところが多い。そのため、人は簡単に心労を患ってしまう。
日本人にありがちな我慢して努力を続ければきっと報われると言った徹底した努力信仰に縋ったままだと身を滅ぼしかねない。そういう完全主義な人がいるのはいいことだが、そういう時こそ少しだけ肩の力を抜いてAIにでも任せればいいのではないのだろうか。
個人差はあるが、付き合い方次第でAIは本来期待されていたような、素晴らしい恩恵をもたらしてくれるはずだ。
多様化する社会
ここ5年くらいの急激なテクノロジーの発達に相まって、日本の古い価値観が新たな尺度にパラダイムシフトしている。
「AはAでなければならない」という画一的な見方から「AはAだけでなく、BにもCにもZにまでなり得る」というような、受容度の高い社会や個人、コミュニティが形成されつつある。
企業も脱構築をはかり、これまで絶対的だった社内ロジックを転換させ、より柔軟な業務形態、経営体制にシフトした結果、国主導による「働き方改革」も打ち出され、人々の働きやすさが向上していくように見える。
ここで言えるのは、絶対的な価値観など存在しないことがわかった今、絶えず流動的に様々な価値基準が産み出されていることを意識しておかなければならない。
無策で頭ごなしに怒鳴りつけるだけの昔気質な指導者は淘汰され居場所を無くす傾向にあるのは言わずもがな、逆にこれまで風当たりが強かった就労困難層にも、YouTuberやInstagramerなどの個人で価値を創出し発信できるツールが増えたため、働き方の柔軟性が高まっている。(未だにこれらを職業と呼ぶ事に抵抗がある層も存在することは事実だが)
2020年には新世代の通信規格「5G」の登場により、今後も一層、加速度的にイノベーション、価値観や働き方の多様化は進んでいくのは間違いない。
日本が置かれている世界的な立場と英語教育
ブログの良さは、画面遷移の関係上、他のSNSと違い瞬時に発信が行える思考に持って行きやすいと感じる。twitterやFacebook、インスタなどはアプリやブラウザを開いたとき、興味の対象が最上位のフィードに投稿されていたりすると、そこから別の広がりや関係性を模索したり派生したりして時間を要することがある。
さて、2016年頃から今にかけて日本は、景気動向指数や消費者物価指数といった具体的な数値上は伸びているように見えるけれども、実質的な景気や企業、国力発展といった部分において、国民の視点からすると停滞していると思っているひとが少なくない。適切な人材が不足していることや、教育のあり方に問題があってそれが成長を阻害する要因の一つになってしまっている。
日本において、一番大事な教育分野は英語だとまことしやかに唱える教育論者はいまだに一定数いる認識なのだが、早期からの英語教育ほど(こと日本においては)生産性の低いものは類をみない。最近よく目にするのはなぜ中高6年英語を習ってまともに英語を喋られる人材が少ないのか?という問い。
これは幼い頃から内容の伴わない英語を考えるせいで、日本語からの変換ができないケースが多いのだと思う。
上に述べたとおり、小学校からの英語教育は全くもって反対で、小学校の間は国語と算数・数学だけ特化しておけばそんなに問題にはならずに英語ができるようになる。中学は英語が必修なので避けられないが、基本的に中学で学ぶ英語など教える側の主観だけを盛り込んだ欠陥だらけのカリキュラム。this is a pen. とか I am Tom. とか日常で使わない文章を例文に置き換えて教えるのだから一般的な中学生にイメージがわかないのも無理はない。なので学校での英語なんてテストで点取れるだけ適当に勉強したらあとは洋書読んだりTED見たりして実際に英語がどのような運搬がなされる言語なのか日本語に置き換えつつ、比較しつつ学ぶというようなアプローチをとれば非常に能率が上がるし、言語体系としての英語も身につきやすい。
このご時世、英語ができないのはグルーバル人材として置いていかれるよと心ない英語教師はぼやいたりするのだけど、そういう教師に限って英語を学ばなければならなければいけない本質がわかっていないものだ。本当に大事なのは日本語でじっくりものを考えられる国語力と、それを裏打ちする論理性を身につけるための数学だ。
海外留学を志す若い学生や中年層が増えつつあるが、ただ旅行を楽しみたいだけならゴールや目標は比較的楽に到達できると思う。ただ、グローバル人材となると、経済やテクノロジーの専門性の高い知識を交えつつ論理に矛盾なく話す必要があるため、語彙と論理は徹底的に追求しなければならない。
日本は再興する国力は持っている。あとは個人が主体性を持ち、今自分が取れるポジションを全力で保持し、常に新たな価値観を受容しつつ、客観性に飛んだユニークな人材を目指し続ける人が少しでも増えることで自ずと国家や個人の先が見えてくると私は思う。